茶室へご案内
裏千家今日庵 茶室・茶庭(一般公開はされておりません)
~ 重要文化財・名勝史蹟 ~
裏千家に伝わる貴重な歴史的遺産
裏千家今日庵にある茶室は、茶道文化の歴史的遺産の中でも秀逸と言われています。
昭和51(1976)年3月、歴史的、建築学的な貴重性ゆえに重要文化財の指定を受けています。
兜門から
玄関までの露地
大玄関
無色軒
腰掛待合
露地
中門
四方仏の蹲踞
小袖の蹲踞
又隠
今日庵
利休御祖堂
溜精軒の「杓の柄窓」
寒雲亭
咄々斎
反古襖
梅の井
抛筌斎
又新
対流軒
兜門(かぶともん)から玄関までの露地
兜門は裏千家今日庵の象徴と言えます。簡素な門構え、檜皮葺、竹樋などが侘びた風情を感じさせます。 門をくぐれば、植え込みの間を霰こぼしの石畳がゆるやかな弧を描いて 奥に延びています。世俗の喧騒から隔絶された市中の山居へと誘うかのような風情を感じさせます。
大玄関(おおげんかん)
兜門から進んだ露地の先は、足元に瓦が敷かれた大玄関となります。黒い竹簀子のあがり框と障子、舞良戸の姿が独特の姿と歴史を感じさせます。
無色軒(むしきけん)
七代最々斎竺叟が好んだとされ、「松無古今色」という禅語に因んでいると言われます。この席の扁額にその筆跡が残っています。五畳敷に一畳分の榑縁張りがつき、踏込床の様に扱われています。 炉は本勝手向切で下座に張壁床があります。点前畳の左隅に四代仙叟好みの 釘箱棚があります。榑縁張りと点前畳との境の下地窓、大胆な意匠の鴨居など、見どころの多い茶室です。
腰掛待合(こしかけまちあい)
四代仙叟が好んだとされます。屋根は杉皮葺で、そこに石を乗せてあります。これは、加賀の生活が長かった仙叟が、北国の民家の風情を取り入れたと言われています。 正客の踏石はひときわ大きく、貴人石と言われています。丸太柱には棕櫚箒を掛け、静かな清浄感の中で客を待ちます。
露地(ろじ)
腰掛待合から飛石を進むと、中程からは霰こぼしの石畳と趣きを変えます。外露地の風情は、常磐木の濃淡と木洩れ陽の明暗によって作り出されます。 人の気配さえも清らかな空気に溶け込んでいくかの様です。
中門(ちゅうもん)
中門は、簡素な姿の外露地と幽玄な趣の内露地の境にあります。鉈ナグリの手法を用いた北山丸太の柱に割竹葺のきわめて簡素な門です。その姿は、茶室の風情を損なわないようにするためと考えられます。
四方仏の蹲踞(よほうぶつのつくばい)
又隠の席の前庭に据えられ四面に仏体が刻まれているところから、「四方仏の蹲踞」と呼ばれています。石塔の塔身を転用したもので、苔むして丸味を帯び、仏体の輪郭も定かではありません。その姿は、灯籠と共に趣のある情景をつくりあげています。
小袖の蹲踞(こそでのつくばい)
寒雲亭の前にあり、「小袖の手水鉢」とも呼ばれています。 名前の由来は、利休が豊臣秀吉から小袖を与えられようとしたときに小袖よりも庭の石を賜りたいといって与えられた石であると言う説と、利休好みの形で小袖形と言うことからとする説などがあります。
又隠(ゆういん)
茅葺入母屋造りに庇の突上げ窓の様式など、四畳半茶室の代表的な建築とされています。躙口周辺の飛石も「豆撒き石」と言われ、三代宗旦の創意と伝えられています 宗旦が隠居所今日庵を建てたのち再度の隠居の際に建てた庵なので、また隠居するという意味から「又隠」と命名したことによります。
今日庵(こんにちあん)
極限まで切り詰めた一畳台目という最も狭い草庵の茶室で、壁床になっています。 宗旦が隠居所として建てた茶室を「今日庵」と命名し「裏千家」を代表する茶室です。 名前の由来には逸話があります。それは、席披きに遅れた清巌和尚が、茶室の腰張に書きつけて帰った「懈怠比丘不期明日」の意に感じて、と言われています。
利休御祖堂(りきゅうおんそどう)
茶祖千利休居士と、三代宗旦居士を祀るところから「利休御祖堂」と称し、九条尚忠筆の扁額により「清寂院」とも称します。大徳寺三門の楼上にあった等身大の利休木像と宗旦の小座像が床正面の丸窓の奥に奉祀されています。邸内奥に位置し、もっとも大切なところです。 三畳中板に炉が切られ、正月元旦と宗家古式慣例の儀式はここで行われます。 隣接の御仏間には歴代宗匠方の御位牌が安置されております。
溜精軒の「杓の柄窓」(りゅうせいけんのしゃくのえまど)
寒雲亭と大水屋との間にある六畳を「溜精軒」といい、十一代玄々斎の好みで逆勝手出炉に炉が切られており、除夜釜に使用されます。 桑一枚板の大棚があり、下地窓が「杓の柄窓」と言われ、使い古しの柄杓の柄でつくられています。床は点前畳勝手付壁面で、亭主床の構えになっています。
寒雲亭(かんうんてい)
三代宗旦好みと言われています。書院造りが特色で、八畳に一間の本床・一畳の控えの間と付書院があります。貴人のために「真」、お相伴の人には「行」、 自ら茶を点てる場所は「草」という具合に、天井を真行草の三段に張り分けていると言われています。 宗旦の独創性と心遣いが示されていると考えられます。狩野探幽筆「飲中八仙之図」(通称探幽手違いの襖)、 東福門院よりの拝領品を象った櫛形の欄間などがあります。
咄々斎(とつとつさい)
十一代玄々斎が、天保10年(1839)利休250年忌に際し、「稽古の間」として造られます。安政3年(1856)宗旦200年忌を営むために改修し、宗旦の号をとって「咄々斎」と改めました。 八畳の席で、床は八代又玄斎一燈手植えの五葉松の柱に久松家拝領の蔦の框、床脇は踏込地板敷の正面に大きな下地窓を開け、千利休が秀吉から拝領した銅鑼が吊ってあります。五葉松の古材を長板の寸法に切り、これを組み違いに張った格天井は「一崩しの天井」と称し、床脇上方の竹、前庭の「梅の井」と名付けられた井戸と共に松竹梅の意匠となっております。 欄間は香狭間桐透かしとなっており、玄々斎の趣向が感じられます。
反古襖(ほごぶすま)
咄々斎との襖の次の間(大炉の間)の取り合い襖は「反古襖」と呼ばれています。半間襖4枚に、茶道具や点前作法、利休道歌が書かれた襖で、十一代玄々斎が安政3年(1856)に書いた文章が基になっています。 この茶室には「大炉は一尺八寸四方四畳半左切が本法なり。但し、六畳の席よろし」と玄々斎の規定した通りに大炉が切られています。
梅の井(うめのい)
釣瓶の滑車が梅の意匠であることから「梅の井」と呼ばれています。 元日に利休御祖堂で行われる大福茶には、家元自ら若水を汲み、点てた茶を利休像に供えます。 そのそばの手水鉢は玄々斎の縁故をもって尾張徳川家より拝領した、見込に菊の斑点が鮮明に現れた菊花石です。
抛筌斎(ほうせんさい)
十一代玄々斎が、天保10年(1839)利休居士250年忌に際し造られました。利休居士の斎号をとって席名としたものです。 十二畳敷の広間で、一間の本床を構え、床脇に地袋と一枚板の棚を設けてあります。床前二畳が高麗縁で貴人座となっていますが、畳の配置と縁によって特に上段にせず、わびの姿をも含んでいます。八畳の敷き方も時代で趣を異にしています。
又新(ゆうしん)
昭和28(1953)年、十四代家元無限斎(淡々斎)の還暦を記念し、嘉代子夫人の設計により新築されました。 又隠の席に対して「又新」と命名され、 茶の創造的な精神をその名に示しています。立礼席および六畳と三畳台目の茶室からなり、立礼席には淡々斎好御園棚が据えてあります。
対流軒(たいりゅうけん)
十三代圓能斎好みの広間で、扁額もその手蹟によるものです。その名前には、当時の裏千家前を流れる小川のせせらぎに対して、 茶道の伝統の維持と今後の発展を期した圓能斎の決意が託されています。 床柱は又隠の前庭にあった老松、床脇の袋棚には御祖堂の戸張の残り裂が用いられています。欄間の遠山風の透しは、銅鑼の旋律を表わしており、素材の取合わせの妙と意匠の斬新さに、圓能斎の茶道発展への意欲的な姿勢を伺うことができます。