裏千家について

 裏千家は、千利休(せんのりきゅうを祖とする茶道家元です。その歴史は、千利休の孫・元伯宗旦げんぱくそうたんが母屋を三男・江岑宗左(こうしんそうさに譲り、その北側に隠居屋敷を建てたことに始まります。屋敷内には、「今日(こんにち(あん」と名付けられた茶室も設けられました。当時、隠居屋敷は母屋との関係から「うら(裏)の家屋敷」などと呼ばれており、そのような理由によって「裏千家」という通称が生まれたと考えられています。
 今日庵という庵号は、大徳寺(だいとくじ第百七十世・清巌宗渭(せいがんそういが宗旦に宛てて書いた「懈怠比丘不期明日(けたいのびくみょうにちをきせず」(大意:怠け者の僧侶に明日のことは約束できない)という語に由来すると伝わります。今日の出会いが尊いものであることへの強い想いを「今日庵」という庵号に託したのでしょう。
 宗旦の四男・仙叟宗室(せんそうそうしつが今日庵を継承して以降、歴代宗匠は千家茶道の精神を永年にわたって継承しつつ、時代ごとの「今」にかなう茶の湯の姿を実践してきました。例えば、江戸末に十一代玄々斎(げんげんさいによって海外からの来訪者をもてなす為に椅子とテーブルを用いた「立礼(りゅうれい」の様式が考案され、今では広く親しまれています。また、それまでは大名や裕福な人たちの楽しみや教養であった茶道を若い世代の教育に役立てようと、女学校にその門戸を広く開放したことから、学校教育における茶道、すなわち「学校茶道」が始まり、その普及にもつとめました。
   その他、茶法に関しても時代ごとの創意工夫がみられます。保健衛生観念が向上した明治時代後期には、濃茶(こいちゃの回し飲みをしない場合の扱いとして、濃茶を一盌ずつ練る「各服点(かくふくだて」が裏千家十三代圓能斎(えんのうさいによって考案されました。昨今のコロナ禍においては、その方法が広く採用されています。裏千家では千家茶道の伝統を大切に守り伝えるとともに、今日における茶の湯文化のあるべき姿を考え、時代に即した茶の湯を実践しています。