今月のことば

「腹」をつくる

千 宗室

淡交タイムス5月号 巻頭言より

 幼い頃から私は祖母に連れられ、よく車でお参りなどへ出掛けていました。道中で神社やお寺の前を通るとき、必ず祖母が車窓を開けて頭を下げていたのを覚えています。「神様仏様の前を自動車で横切らせていただいて失礼なことだと思う」と祖母は言いました。京都はことさら社寺の多い町ですから、窓を開けたり閉めたりの繰り返し。その都度、「礼拝」に付き合わされ、面倒なことだと子ども心に思っておりました。
 祖父母と一緒に暮らした時間が長かったこともあり、その「礼拝」は私の体に染みつきました。条件反射のようにしてしまう自分が嫌で仕方なかった時期もあります。もともと祖母は信心深い人でしたし、信仰の程度の問題だろうくらいに考え、長くやり過ごしてきました。それでも歳を重ねるにつれ、あれこれ思いを巡らすようになり、五十歳くらいになって気付いたことがあります。
 ある神社を通りかかった際、見覚えのある人がお参りをされていました。いつもそうしておられたのでしょう。その姿を見たとき私の中でいろいろなことが整理され、すとんとに落ちました。「礼拝」は、その場所を大勢の方が長く守ってこられたことに対する敬意の表れだったのだろうと思ったわけです。
 点前においても、例えば「唐物」では、単にその茶入が希少品だからというだけではなく、それが長い年月大切に守られてきたことに対する敬意が細かな扱いに込められています。ですから、たとえ稽古道具であっても、はるばる海を渡って今日まで大事に伝えられてきたものを扱うつもりにならなくてはいけません。その「腹」がなければ、テクニックを覚えるだけで終わってしまいます。
 「腹」とは、ものに向き合う気持ち、敬う心のことです。それは人から教わるものではなく、自分自身でつくっていかなくてはならないものです。

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