今月のことば

余韻を楽しむ

千 宗室

淡交タイムス 8月号 巻頭言より

 今年の上半期は、地区の「つどい」や支部の周年記念行事などで多くの茶席に寄せていただきました。それぞれの地区、支部の皆さま方に尽力いただき有り難く思っております。
 こうした会に参加したときの何よりの土産が「余韻」です。宗家へ戻り、家族で朝のお茶をいただく折などにあれやこれやと語って聞かせたくなります。つまり茶飲み話の種になるのが余韻というものです。
 一つ一つの茶席にそれぞれ異なる余韻がありました。それは何も設えや道具組みからだけ生まれるものではありません。席を担当していただいた席主をはじめ水屋の方や案内係の方まで一人ひとりが客を迎え入れ、そして送り出すときの姿、それらすべてが余韻を生み出したということです。これこそが茶の湯のもっとも大切な部分ではないかと私は思っております。
 例えば茶事の中立ちのとき、客は亭主が打つ銅鑼の音を聞き、その音が消えていく中で腰掛を立って席入りをします。いわば余韻に導かれて後座へ向かうわけです。余韻とは決して消えてなくなるものではなく、消えていった後に新しいものを生み出します。その余韻をつかまえられるかどうかは、お一人ずつの感性にかかっています。
 大寄せ茶会に招かれ一服をいただき、ご亭主の挨拶が済んだところで、「この席は終わり」というのでは、せっかくの土産が台無しになってしまいます。一度振り返って床や道具にちらりとでも目をることができたなら、そこから余情残心が生まれるものです。そういう思いを常に持って、これから先皆さん方が出会う茶席に臨んでいただきたいと願っております。 

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