今月のことば

文字に向き合う

千 宗室

淡交タイムス 9月号 巻頭言より

 今年の青年研修会の閉講式に際し、楷書体で書かれた読みやすい禅語の軸を床に掛けました。その軸を下さった老師に数か月前にお会いしたとき、私は改めてお礼を述べ、「読みやすく書いていただいたので若い社中も喜んでおります」とお話ししました。すると老師は「昔は読めない字の前に坐って呻吟(しんぎん)するのも修行でしたね」とひと言。少し間を置いて「今は修行に来る人もいろいろいるから、読めない字を睨むのも読める字を睨むのも修行ですね」とおっしゃいました。
 その言葉が今でも私の中に残っています。というのも、亡くなった母のことを思い出したからです。大徳寺での法要や家の仏間でお盆のお勤めをするときなど、母は必ず経本を開いていました。菩提寺の僧が唱えるお経を目で追うためです。記憶力の良い母がお経を暗記していることを私はよく知っていました。そこで或るとき、「覚えているんだから経本を開かなくてもええんとちがう」と言うと、「こうやってお言葉を目で追うのもご供養だからね」と母は答えました。お経を(そら)んじることも、一文字一文字を目で追っていくことも、どちらも供養だということでしょう。
 茶の湯においても、例えば点前ができるかどうかということに加え、どれだけ真剣に向き合うかということが大事です。古い型を受けた上でそれを時代にどう適応させていくか。そう考えるのに肩書やキャリアは関係ありません。
 老若男女を問わず、一人ずつが自分をしっかり見つめることから始め、茶の湯の()し方を振り返り、その行く末に心を向けていただきたいと存じます。

アーカイブ