今月のことば

坐忘閑話④ 三年ひと昔

千 宗室

淡交タイムス(裏千家グラフ) 6月号 巻頭言より

 コロナが5類指定に変わり、どことなく心穏やかになった。そんな簡単に安全無事になるわけはない。それは誰もが分かっている。しかしぴりぴりした気配の中で日を送るのには辟易してきた。そこにお(かみ)が〝もうちょい楽に構えましょ〟と呼びかけてくれた。このひと言で精神的な息継ぎができたのだろうか。
 散歩に出てもそうだ。この春先まで社寺仏閣に立ち寄り拝礼する際、かなり密になっていることがあった。世の中が不安定だとやはり大きな力に頼りたくなる。それが人情なのだ。但し、異様なのは社殿の前に並ぶ参拝の列に剣呑な空気が漂っていたことだ。己の傍に立つこの輩は感染者ではないか、と疑心暗鬼なのだろう。それが今は賽銭箱の前の人溜まりも元からのようにおっとりとしている。やたら気にしても仕方ないじゃないか、という心持ちが垣間見えてくる。
 掛け釜が復活し、お()ばれするのは楽しいことである。感染者は増えたり減ったりするからある程度の用心は欠かせない。私はお茶を頂いた後に水屋へ挨拶に行く。そこにガイドラインを貼っていてくださる席主が殆どなのが嬉しい。席主の手伝いをする社中方、招かれる客、その双方への気配りが感じられ、これで余情残心は一際ひときわのものになる。安心感も趣向のひとつなのである。
 ところでコロナウイルス蔓延中、お酒の家飲み消費が多くなったらしい。どなたも手が上がったようだ。ただ私に関してはその反対である。元から猪口片手に珍味酒肴の一箸二箸主義だった。外出自粛をし、家でおとなしくしているのが三年続くうちにお酒を欲しなくなった。家のお惣菜で肉じゃがだ、コロッケだとなるとお酒より白飯の方が合うのは当然のことなのだ。
 さて、飲む量が減る。すると身体の中の酒蔵(・・)に空きスペースができる。そこに甘いものが越してきた。空き間は思ったより広く、晩酌をしていた頃には目もくれなかったキンツバや鯛焼きや汁粉などの町菓子がその場を占めていく。お酒は完全にやめたわけではない。付き合いの場では少し飲む。それ以外は飲まないし、飲んでも食後の甘味の方を心待ちにする。子供の頃から辛党で通ってきた自分が甘党にシフトチェンジするなど、コロナ以前には思いもよらぬことだった。
 初夏の辻角に安心感が戻り、私は餡子を頬張り、そうして渋茶を啜る。この秋は待ちに待ったラグビーのワールドカップが開催される。縁起を担ぎ、膝前に大福餅を並べて応援するつもりだ。ヤケ酒ならぬ餡子ヤケ喰いにならねば良いのだが。

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