今月のことば

どのように生きるか

千 宗室

淡交タイムス 1月号 巻頭言より

 コロナ禍とはいえ月日の流れに変わりはありません。慌ただしい年の瀬を経て、今年もまた新春を迎えることとなりました。皆様方にはお住まいの土地柄に合わせた初春の茶の湯を催されることと存じます。
さて利休居士は大永二年のお生まれです。西暦で記すと一五二二年。ということは、ありえない話ですが、もしご存命なら五百歳。

 昨年あたりから居士にご縁のある土地や地域、また茶の湯と全く関係のない企業などから利休生誕五百年祭を企画したいとの申し入れが届いています。それら全て、私どもはお断りいたしております。そうすると話を持ち込んできた側は「何か条件でもあるのですか」などと訊ねなおしてくることがあります。

 従来より私は、一般的に用いられる「生誕祭」なるものには宗教的な意味合いが濃く含まれていると感じてきました。即ち救世主であったり造物主であったり、信仰の対象になりうるものということです。もちろん作家や思想家で後世に影響を残したように必ずしも宗教的でない先人も含まれていますが。

 利休居士は深く禅に帰依されました。禅には救世主は存在しません。どのように生き、どのように死んでいくかを自分自身で発見し、それを身につけていくべく研鑽するものではないでしょうか。言い換えれば「死ぬためにどう生きていくか」を命題にしています。それが人生の道標となるのでしょう。だからこそ「遠忌」はあっても「生誕祭」はないわけです。同門の皆様方にはどうぞその居士の生き方に想いを馳せ、この年も変わらず自らの修行に励んでくださることを期待いたし、ご挨拶とさせていただきます。

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