今月のことば

「在釜」の心

千 宗室

淡交タイムス7月号 巻頭言より

 今年は、五月から真夏日があり、六月になるとすぐに梅雨入りし、初夏がなかったような気がいたします。季節の移り変わりや、その日の天気も読めないような中で、取り合わせを考えるのも一苦労だったのではないでしょうか。私も懸釜のたびに蔵を行き来し、天気予報も見ながら、あれやこれやと考えて道具を選んでおりました。
 さて、京都では町家の軒先などに、「在釜」と書かれた札が掛かるのを見かけます。「在釜」とは、懸釜を知らせる合図であり、茶の湯の本来の姿を表す言葉です。新しい一日を迎え、「釜があります」と知らせるときに、その日に合わせて軸や花を用意する。あるいは、これと決めた軸を一年中使うというなら、それでもいいわけです。軸に対してその日の心で臨むということが、かつては当たり前でした。しかし、現代はいろいろなことが便利になったおかげで、昔のようなやり方をすると、おざなりにしていると見られてしまうようになりました。
 毎年、二月の利休居士毎歳忌と五月、八月、十一月の月忌法要に際し、聚光院で懸釜をさせていただき、「今年はこの一幅の軸だけでいこう」と思うことがこれまで何度もありました。とはいえ、せっかく遠方からお越しになる方もいらっしゃいますし、やはりいつも同じというわけにはいきません。その都度、取り合わせを考えることが「気配り」だと思うからです。
 けれども最近になって、それが本当に「気配り」なのか、ひょっとすると自分が今の世に取り込まれてしまっているのではないかと思うことがあります。その答えを探しつづけ、今も落としどころを悩んでいますが、結局、あまり気にしすぎないほうがいいということなのでしょう。
 利休さまの時代に戻ることはできなくても、当時に想いを馳せつつ、その一日の茶の湯の姿を見つめることが何より大切だと思っております。

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