今月のことば

半夜の鐘

半夜の鐘

淡交タイムス11月号 巻頭言より

 先月の朔日は私どもにとりまして忌明けの初日にあたりました。
 宗家の稽古場には今年も例年と同じように「月落長安半夜鐘」を掛けましたが、鵬雲斎宗匠はこれが好きでした。毎年十月になると咄々斎に掛かるのを私は物心ついた頃から眺め、それが決まり事のように思い続けてきました。ところが最近になって父の遺品を整理しているとき、淡々斎宗匠がこの軸を別の機会に使っていたことが分かる写真を見つけました。淡々斎の時代には淡々斎なりの使い方があったのだと知り、感慨深くその写真を見ておりました。
 遺品の整理をしていると次から次へいろいろなものが出てきます。父は片付けが得意なほうではありませんでしたので、時代の違うものが重なっていたり、本人の荷物の下に祖父母や母のものがあったりします。古い写真や手紙などもたくさん出てきました。そうしたものを一つずつじっくり見ているときに、偲ぶ気持ちが湧いてまいります。
 冒頭の「月落長安半夜鐘」も、ただ字面を追うだけでは味気なく感じられるかもしれません。しかし「半夜」とは、夜の始まりからも夜明けからも一番遠く、最も暗い時間帯のことと捉え、想いを巡らしてみてください。人気のない広大な都の中で、どこまでも鐘の音が伸びていくというふうに解釈すると、ふと目覚めたときに聞こえた鐘の音が再び眠りにつくまでずっと耳に残っているという具合に受け取ることもできます。
 新しく出会う日に期待をしながら、過ぎ去った昨日に対して偲ぶ気持ちを持つ。その繰り返しが「日々是好日」に繫がっていくと私は思います。
 父が亡くなったことは残念でなりませんが、今がちょうど半夜だと捉え、これから先いろいろな形で偲びながら新しい日に向かって皆さんと共に進んでいきたいと思っております。

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