裏千家歴代

  • 茶祖 千利休居士
    茶祖 千利休居士
  • 宗旦居士
    宗旦居士

 利休宗易居士(りきゅうそうえきこじ)(1522~1591)は、堺の商家に生まれ、幼名を与四郎(よしろう)といいました。一般的には千利休(せんのりきゅう)として知られているように、青年期のある段階から「千」姓を名乗ります。遠い先祖に、足利将軍家の同朋衆(どうぼうしゅう)であった千阿弥(せんあみ)/rp>という人物がいたと伝わり、その名に由来するものとされます。「利休」という居士号は豊臣秀吉(とよとみひでよし)正親町天皇(おおぎまちてんのう)にお茶を献じた時、勅許によって拝受したもので、それ以前は千 宗易と名乗っていました。
 はじめは堺の北向道陳(きたむきどうちん)辻玄哉(つじげんさい)武野紹鷗(たけのじょうおう)に茶の湯を学び、後に織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉の茶頭として仕えます。二人の天下人をはじめ、様々な人々と交流を深める中で茶の湯を大成しました。天正19年(1591)2月28日、秀吉によって切腹を命じられ、70歳の生涯を閉じました。

千利休居士 以降

 利休の後嗣・少庵宗淳(しょうあんそうじゅん)(二代)の後を、その子である元伯宗旦(げんぱくそうたん)(1578~1658)が三代として継いで、利休居士の茶の湯における道統を守り、千家茶道の礎を築きました。宗旦は晩年、三男 江岑宗左(こうしんそうさ)に母屋を譲り、その北側に隠居屋敷を建てて移り住みました。宗旦は隠居屋敷に今日庵(こんにちあん)又隠(ゆういん)を建て、後にこの屋敷は四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)(四代)に譲られます。これが裏千家(うらせんけ)の始まりです。また、宗旦の二男 一翁宗守いちおうそうしゅ官休庵(かんきゅうあん)を興します。
 現在は一般的に、江岑の家系が表千家、仙叟の家系が裏千家、一翁の家系が武者小路千家と呼ばれており、三千家(さんせんけ)と総称されています。
 裏千家の茶室では、一畳台目(だいめ)の今日庵、利休四畳半を基にした又隠、八畳敷の広間である寒雲亭(かんうんてい)が代表的なもので、いずれも宗旦の創建になる茶室です。
 時代は下り、
 八代 又玄斎一燈宗室(ゆうげんさいいっとうそうしつ)(1719~1771)は兄の表千家七代の如心斎天然宗左(じょしんさいてんねんそうさ)と共に、七事式(しちじしき)を制定しました。門人の増加に伴い、技術の研鑽や精神修養を目的とする稽古法として考案されたもので、一燈は裏千家における中興の祖と言われています。
 十一代 玄々斎精中宗室(げんげんさいせいちゅうそうしつ)(1810~1877)は、幕末から明治の変動の時代にあって、いち早く時代の要請に応えて、椅子を用いた方法としての「立礼(りゅうれい)」式を創案しました。
 十三代 圓能斎鉄中宗室(えんのうさいてっちゅうそうしつ)(1872~1924)は、一般の人にも茶道を学ぶことができるように、学校教育の中に茶道を取り入れ、本の出版や機関誌「今日庵月報(こんにちあんげっぽう)」などを発行して多くの茶人を養成しました。
 十四代 無限斎(淡々斎)碩叟宗室(むげんさいたんたんさいせきそうそうしつ)(1893~1964)は、学校や職場における茶道の発展を図り、海外への茶道文化普及にも積極的に取り組みました。
 十五代 鵬雲斎汎叟玄室(ほううんさいはんそうげんしつ)(1923~)は、茶道の歴史と伝統に基づいて、茶禅一味(ちゃぜんいちみ)を主眼とし、一碗を通じての世界平和を願い、「一盌からピースフルネスを」を提唱し、世界各国に茶道を広めるため活発な活動を続けています。
 十六代 坐忘斎玄黙宗室(ざぼうさいげんもくそうしつ)(1956~)は、大徳寺の中村祖順(なかむらそじゅん)老師の下で得度(とくど)し、1982年「坐忘斎玄黙宗之居士(ざぼうさいげんもくそうしこじ)」の(ごう)を受けました。平成14年に十六代を継承し、その後今日庵茶室群の大規模な保存修理を行いました。時代の流れに合わせて圓能斎考案の各服点を取り上げるなど、総合文化である茶道の発展普及に取り組んでいます。


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