今月のことば

学びの進行形

千 宗室

淡交タイムス10月号 巻頭言より

 『禅林句集』や『禅語の味わい方』など、茶席に掛かる言葉に対しての手がかりを与えてくれる書物は昔から数多くありました。最近驚いたことに、スマートフォンを軸にかざして写真を撮ると、そこに書かれた文字を解読してくれるアプリまである。興味本位で試しにあれこれ撮影してみたところ、やはり間違いもあります。そうした便利そうなツールだからといって丸ごと頼るのはよくないということに改めて思い至りました。
 その時もう一つ感じたことは、私自身が禅語に対して、とりわけその言葉に席中で触れる機会が多ければ多いほど安易に向き合っていることがあるのではないか、ということです。例えば正客に座らせていただくと、席主の方から「ぜひとも軸についてご説明ください」と請われることがあります。それに対して私なりに説明したり、ざっくりとした意味を答えたりしてきました。
 もとより禅語は公案に由来します。公案とは師から弟子に突きつけられる問題です。自分なりにどう対処し答えに近づいていくか、その過程こそが大事だというのに、私は老師から公案としていただいていない言葉について分かったような顔をして語ってきたわけです。「慣れ」とはつくづくいけないことだと思いました。
 茶の湯の稽古においても、自分が求めていたものに触れた・・・と感じることがあるでしょう。そうして自分の中にまだ取り込めていない・・・・・・・・のに、いつしか取り込んだと思ってしまう。記憶とは時間が経つにつれ不都合な部分を落とし、いいところだけを残していくからです。それが「慣れ」というもの。
 ですから一度答えに「触れた」と思ったなら、もっとそれに触れ、自分の手に馴染むようにしていくことが肝心です。「できた。分かった」ではなく、「できるようになろう。分かるようになろう」と考えることを忘れてはなりません。学びとは常に現在進行形であるべきだと私は思っています。

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