レッスン風景

福田病院「寿心亭」教室


レッスン風景4

 無音こそ至上。畳の上もすり足で歩く。茶室で音を立てるのは無作法。一方的な思い込みがあった。しかし、習い始めて直ぐの頃、水指から水を釜に入れるときの水音、湯返しした後の柄杓から零れ落ちる湯音、その両者に違いがあることを教わった。私には、音に違いがあることよりも、むしろ敢えて音を聴かせる作法があることの方が驚きだった。

 夏本番を迎え、いつもの点前に茶巾絞りが加わった。夏ならではの作法である。先生が皿のように平べったい、硝子製の夏茶碗をご用意くださった。

 亭主役は平茶碗に二つ折りの茶巾を入れて運び出し、水面を見せ、涼しさを演出。点前の途中で茶巾を絞り、滴る水滴の音に一同が耳を傾ける。静謐な空間のなかの風雅なひとこま。周囲の雑踏が一瞬消えた。

 7月の異名に涼月がある。夏限定の点前は、水音が茶室に涼を呼び込むことで、視覚だけでなく、聴覚にも働きかけてきた。稽古を重ねるうち、五感の一つ一つが研ぎ澄まされていく気がしている。とても粋な経験である。


レッスン風景3

 教室に通う一番の楽しみは、茶菓子。会場に到着すると、水屋でご準備くださる先生方を横目に、忍び足でお菓子を盗み見するのが私の週課。出来立ての主菓子は、先生が馴染みの和菓子屋に発注してくださるもの。季節を先取りした生菓子を、毎週いただける。至極である。

先生は、初心者に対しても、積極的に外部の茶会をご紹介くださる。以前から茶席は利用していたが、目的は抹茶と生菓子。それらが運ばれてくるのを、ただ待っているだけだった。

しかし、茶道を学ぶようになって初めて茶会に参加した際、亭主の畳の歩き方をみて、感動した。なぜなら、習った通りの歩数で歩いていたからだ。帛紗捌きの正しい所作にもちゃんと気が付いた。

これまでそこに作法があることを知らなかったため、見ていたようで見えていなかった様々なことが、急に目に飛び込んでくるようになった。教室で学んだことを、茶会でおさらい。先生から経験の機会を与えていただき、とても新鮮な出会い直しをしている。


レッスン風景2

 冒頭、先生のご挨拶「5月に入り、フロの季節を迎えて…」。「風呂?…」。正しくは「風炉」。初対面の言葉である。

 黄金週間を挟み、全てを忘れ教室へ。しかし、畳の定位置に座ると、自然に身体が動き出す。不思議だ。席入りは、仮想茶室を想定した稽古であり、全ての所作は茶室に通じることを知る。帛紗を使った手品は、帛紗捌き。何のためのものか不明であったが、その正体は、まさかの布巾。手間をかけた一品である。

 先生は寛容である。いい大人が懐紙の使い方を間違っても、稽古の途中に白靴下が脱げ飛んでも、「大丈夫よ」と、決して動じない。その不動心さゆえ、教室の空気は常に一定である。先生の居住まいに助けられ、不出来を恥じることなく、ありのままで稽古に臨んでいる。そのおかげで、学びの多い日々を享受している。


レッスン風景1

 茶道とは、茶の道。ゆえに「ちゃどう」と称する。衝撃である。稽古道具を揃えに行った茶道具専門店で知った。茶道教室は、抹茶の美味しい点て方だけを学ぶ場ではないとも。知らなかった。

 不安なまま初日到来。会場は、料亭跡地。一歩足を踏み入れると自然に気持ちが引き締まる。受講者は7名で、全員初対面。すぐさま稽古開始。

 まずは、畳の上での所作。日常生活で、畳とは縁が薄い。歩数を意識しつつ歩くことも、襖を開ける機会もない。先生のリズミカルな掛け声に、習いたての動作を合わせるだけで精いっぱい。全身で茶道を体感。

 心地良い疲労感を一服で拭い、次は、帛紗と呼ばれる赤い布との格闘である。広げ、折り、丸める。まるで手品だ。手順に従い帛紗を捌くと定形になるらしいが、できない。これは難儀である。

 救いは、複数の先生が受講生の傍で、見守ってくださること。何がどう間違っているのかがわからない初心者には、大変ありがたい指導体制である。