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第65号(平成28年12月15日配信)

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『さんふくめ』 千 敬史
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(写真:クリスマス茶会にて)

  随分と寒くなってまいりました。皆様いかがお過ごしでしょうか、
千 敬史でございます。かつては風の子だった私もついには火の子になってしまい、忙しい時期にも関わらず風邪を引いてしまいました。今はすっかり良くなりましたが、皆様もどうぞご自愛くださいませ。
  写真はみどり会(※)のクリスマス茶会にお招きいただいた時の風景です。毎年、趣向を凝らしたみどり会ならではのおもてなしにホッコリさせてもらいます。国籍が違えど同じことを同じ空間で共有できるというのは良いことですね。英語も勉強した方がいいかなぁと思った26歳の冬でした。
  それでは今年1年どうもありがとうございました。来年も皆様とまたお会いできるのを楽しみにしております。メリークリスマス!
  ※ 裏千家学園茶道専門学校別科「外国人研修コース」の学生

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茶人の逸話:伊達綱村
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  陸奥国仙台藩(宮城県)の第4代藩主の伊達綱村(だてつなむら)は、父綱宗(つなむね)隠居により、万治3年(1660)わずか2歳で藩主となりました。その後、御家騒動である「伊達騒動」が起こり、仙台藩は取潰しの危機にあいましたが、綱村が12歳とあまりに若かったため、取潰しは免れました。以後は自ら政務を執り、藩政の回復に努めましたが、藩財政を好転させようとした藩札発行により、かえって財政危機を招き、元禄16年(1703)には隠居させられてしまいます。
  綱村は、隠居前の元禄6年(1693)から宝永2年(1705)まで、1,130会の茶会を催しています。もちろん綱村1人でこれだけの数の茶会を催すことは不可能で、8人の茶道役や、露地師、数寄屋大工、表具師などの大勢の裏方の支えによって可能でしたが、それにしても一大名が催した茶会としては希な会数です。
  さらに、これらの茶会を催すことができた背景には、伊達家が所蔵した膨大な数の茶道具の存在がありました。「10万アルヘキカ、20万アルヘキカ」と綱村が遺言に書き残したように、本人にも正確な数はわからなくなっていたようです。大大名伊達家の底力恐るべし。


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