![]() |
第62号(平成28年9月15日配信) |
------------------------------------------------- 『DNA』 千 万紀子 ------------------------------------------------- |
![]() |
(写真:自宅にて) |
朝夕に秋の訪れを感じられるようになって参りました。夏は裏千家のオフシーズンとはいえ、今年は責任ある仕事をいくつも任せていただいたのですが、その中で「佇まいが登三子奥様に似ていらした」とのお言葉を何度か頂戴し、驚きました。記憶から薄れつつある祖母をまた近くに感じ、オフィシャルな姿を見ていなくとも、受け継いだ血が私を同じように振る舞わせていることに気付かされます。祖母は大宗匠の飛躍を支えた縁の下の力持ちでした。まだまだ及びませんが、私も裏千家にとっての、そのような存在になれればと思います。 |
------------------------------------------------- 茶人の逸話:稲葉正則 ------------------------------------------------- |
相模国(神奈川県)小田原藩藩主の稲葉正則(いなばまさのり)は、三代将軍徳川家光の乳母春日局の孫で、母の死により4歳の時から祖母の春日局に引き取られ、大奥で育てられました。春日局の孫というその立場は徳川幕府においては重みを帯び、正則は三十代前半で老中に就任し、更に老中首座から大政参与に任命されています。 正則は夫人の父、長門国(山口県)長府(ちょうふ)藩主の毛利秀元から茶の湯を学びました。秀元は古田織部の弟子でしたから、正則は、織部の孫弟子にあたります。 正則は、四代将軍徳川家綱から病中の気晴らしに茶会をするように申し付けられ、休憩時間である「中立(なかだち)」の後に大小紋の衣服に華やかな裃(かみしも)を着て茶会を続けて評判となりました。しかし、その一方で「異風なことだ」という批判も受けました。 この批判を聞いた徳川将軍家の茶道師範の片桐石州(かたぎりせきしゅう)は、「それが茶の湯というものだ、必ずしも定められたようにすることはない。あの茶会は病気の将軍の慰みにしたものだから、何か珍しいことをしようと考えたのはもっともなことだ」と正則の考えをほめたそうです。 |