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第27号(平成25年10月15日配信) |
------------------------------------------------- 『足早な秋年』 伊住公一朗 ------------------------------------------------- |
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(写真:唐津支部50周年・青年部45周年記念大会にて) |
こんにちは! 10月生まれの私はここ数年、不満がたまっております。 それは秋が異常に短いということ。残暑が長く秋を迎えたと思ったらもう冬といった調子です。 大好きな金木犀の香り、秋の夕暮れ。もっと満喫させてほしい!! 秋を感じるために松茸、栗など頂戴するのですが・・・やはりあの何とも言えない空気感が私は好きです。 紅葉の秋、行楽の秋、食欲の秋。秋がいかに万能かを物語っております。 秋を求めて、今月も西へ東へ出張させていただきます。 今月も宜しくお願いします。 |
------------------------------------------------- 少庵の逸話 最終回 ------------------------------------------------- |
利休自刃の後、千家の人々は京都や堺を離れ、散り散りになります。道安は飛騨国に身を隠し、少庵は会津の蒲生氏郷(がもううじさと)のもとに預けられました。氏郷は、利休七哲(しちてつ)の一人に数え上げられるほど利休に近い人でしたから、このことを大変喜び、会津若松城で少庵を手厚く保護しました。やがて、秀吉の怒りもとけ、少庵は京都の本法寺前の屋敷に戻ることを許されます。道安もゆるされて秀吉の茶頭(さどう)に復帰しました。千家再興です。 しかし切腹の際召し上げられた利休所持道具は、二人の息子ではなく、孫の宗旦に返されました。その量は、長持(ながもち)三棹分(みさおぶん・三個分)あったそうです。現代の我々にとって長持という収納具はなじみが薄く、三棹といわれても実感がわきませんが、それなりの量だったのでしょう。これは『茶湯古事談』(ちゃのゆこじだん)にみえる話です。実際には利休所持道具の一部は、少庵にも伝えられていました。 その後の少庵は、茶人として聖護院門跡(しょうごいんもんぜき)を始め、公家や、織田有楽(うらく)のような大名、禅僧、京の町衆、能楽師など幅広い交友関係をもち、茶の湯の弟子も増え、千家の基礎を築き直しました。慶長8年(1603)2月には、利休の13回忌を営み、同19年4月、大徳寺の玉室(ぎょくしつ)和尚に遺産処分の後見を頼み、宗旦にあとを託して9月7日に亡くなりました。 |