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第9号(平成24年4月15日配信)

『世界の壁』 伊住公一朗

  こんにちは!やっと暖かくなってきましたね。
  私は先月、初めてワシントンDCに行ってまいりました。日本が桜を寄贈して100周年の記念イベント、また新道場完成のお茶会と盛りだくさんの内容でした!!しかし、私を悩ますものが。
  それは・・・・時差ボケ。
  どうしようもないほどの時差ボケが今、私を苦しめています。そして治りきらぬまま、ロサンゼルス・サンフランシスコに出張中。世界の厚き壁を感じている四月です。


    写真:在米国日本国大使公邸内茶室「悠々庵」にて

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茶人の逸話その2:高山右近
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  高山右近(1552-1615)は天正22年に摂津国高山の土豪高山飛騨守の子に生まれ、日本人修道士 ロレンソ了斎について受洗し、ジュストの名を得るほどキリスト教に帰依し、キリシタン大名として明石6万石に栄進したが後年には信仰のためにマニラに流され、日本に戻ることなく生涯を終えました。

  さて、利休居士在世の頃、利休が風炉の茶で不時の茶を催した時に茶碗に茶を入れたあと水指の水をくんで釜に入れたことがあり、皆が深く考えずに形を真似、中水をさす作法が大いに流行したことがありました。
  右近はその作法を不審に思い、ある時どうして中水をさすのか利休にたずねました。利休は、「当日は朝から客があって釜の湯を多く使ったのに、急に客が来て不時の会となったため、湯を改めるつもりで水をさしただけで、それこそさしたる理由があったわけではありません。聞かれなければ話さないつもりでいたが、よくぞ聞いていただけました」といって右近を誉めたとされています。

  右近は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑の時代を生き、高槻、明石、金沢など各地を転々としそれぞれの地で様々な功績を立てました。キリスト教への帰依が深かった右近は秀吉の禁教令に際しては財産、領地を捨てても信仰を守りましたが、慶長19年、家康の追放令を受けてマニラへ流され現地で亡くなります。マニラでは総督の指示のもと盛大な葬儀が行われ、最期まで利休から手渡された羽箒を携えていたと伝えられています。
  現在、大阪府高槻市、石川県志賀町、富山県高岡市そしてフィリピン共和国マニラに右近の像があり、その足跡を今に伝えています。

高槻市の右近像と高槻教会高山右近記念聖堂

記念聖堂横:イタリア・カララ産大理石の右近像

記念聖堂壁面:陶板製の右近像
京都の陶芸家・河合紀氏の作

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【メルマガ支部通信】茨城支部 つくば青年部
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  青年部活動を親先生や先輩にご理解いただく場として、また日頃のご支援への感謝として、昨年十月、つくば国際会議場においてつくば青年部茶会を開催しました。

本文:http://www.urasenke.or.jp/image/magazine/120415t1.html


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