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余白が語るもの

千 宗室

  子供の頃、雛祭りの前後になるとよく叔父の家に弟と二人で雛人形を見に行っていました。雛壇に鎮座するお雛様は目つきが鋭く、いささか剣呑に感じました。長じて自分に娘が生まれ、雛人形を飾るようになってもそのおもになかなか馴染めませんでした。
  ところが数年経ってその雛壇を遠くからぼんやりと眺めていた時、ようやく見方を間違えていたことに気が付きました。それまで私はお雛様の傍に行って、しげしげとその顔を見ていました。しかし離れて見てみると、お雛様がその部屋という空間にじわじわと沁みていくようです。飾り付けの色合いが実に上手に混ざり合い、温かい雰囲気を醸し出していました。その時に初めて部屋の余白にお雛様を感じ、今ではそのはんなりした麗しさを好ましく思うようになりました。
  世の中には常に傍に寄って見ればよいというようなことばかりではなく、離れて眺めていてこそその存在感がはっきりと浮き上がるものがあります。「日本文化は余白が全てを語っている」と言われます。いらないものをそぎ落として何もない空間を作り、そこに余韻が生まれてくるのを待つ。茶の湯においても点前をする際、手元だけではなく道具組や床飾り、ひいては水屋の佇まいまでを意識してこそ一碗のお茶が生きてきます。三寒四温のこの時季、皆さまの中にもゆるゆると入り込んでくる春の陽だまりのようなゆとりを持って茶の湯と向き合っていただければと存じます。

  三月十一日、東日本大震災から丸十年。新型コロナウイルスの感染拡大は被災地の復興にもさまざまな影響を及ぼしているようです。出口が見えない状況の中、遠くても必ずそこに辿り着けるという希望を持って、これからも皆で被災地に心を寄せ続けてまいりたいと存じます。

淡交タイムス 3月号 巻頭言より