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当たり前の存在

千 宗室

  賀茂川のほとりを歩いていて、昔大叔父の井口海仙宗匠が「淡々斎宗匠が師範学校に通っていた時に、教職員や他の生徒たちと賀茂川の堤にたくさん桜を植えたんだ。その石碑が残っているから」と言っていたことを思い出しました。ちょうど出雲路橋のそばに差し掛かり、どこかの橋のたもとにあると聞いていたのでパッと見渡したところ・・・まさにその橋の前にありました。見ると薄ぼんやりと「志波無桜碑」と揮毫されており、裏にはその謂れが彫ってあります。大きな台風で随分折れた年もあるそうですが、この中には淡々斎宗匠が植えられた桜も残っているかもしれないと思いつつ、桜並木を眺めて帰ってきました。
  その時考えたのは、どうして見上げるような大きな石碑があるのにこれまで気付かなかったのかということです。ごく当たり前の風景の一部になっているから気が付かないのだろうか、と感じる一方、茶の湯も同じで、伝統文化とはこういうものかなと思いました。存在はとても大きいのに、当たり前だからかえって見過ごしてしまう。
  残念ながら今、世の中の人が文化に対して少し無関心になってきています。自分の中にたくさんの文化のDNAが流れているけれども、近くにありすぎて目をやらない。「茶の湯は敷居が高い」と思われるのはこちらが敷居ばかり見せるようにしているからかもしれません。初心者の方には作法云々ではなく、「ずっと身近にお茶はあったんだ。抹茶一服、番茶一杯でもお茶をいただくということに何の差もない」ということを足がかりにしていただいたらよいのかもしれません。相手に合わせていくことにより、当たり前のようにある存在に皆が気付いていけるきっかけを作れるのではないかと感じた次第です。

淡交タイムス 11月号 巻頭言より