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柳緑花紅

千 宗室

  三月末から四月前半では風景がどんどん変化していくように感じます。四月の朝、小川通りに春風が走った折、門前に咲く桜の木の隣で芽吹いた柳の枝がふわーっと舞い上がりました。一瞬、柳が桜花を隠すように揺れ「柳の緑がよく見えるな」と思った途端“柳緑花紅”の語が頭に浮かびました。
  この語は皆さまも茶席でよく目にすることでしょう。解釈はいろいろとあります。禅の本質を考える問答の答えに引用されることもあれば、詩歌に季節の表現として使われることもあります。今回私は目前の風景を見ながら、「柳は紅になれないし、花は緑にはなれない。柳は冬に裸で枝をぶら下げている時『次に咲かせるのは紅だ』とは考えてないだろうし、桜も『次の春には緑色の花を咲かそう』とは思わないだろう」ということを考えました。各々の「運」が予め決まっているというのは、そういうことなのか、と。
  人間は「今の自分と違うものになりたい」と色々な努力をし足掻く生き物ですが、自分以外の何ものにもなれるものではありません。ですが、その努力が「今の自分を少し進めたい」という思いに繫がっているのではないかと感じ入った次第です。一歩進めるということは、上達していくこともあれば、途中で転んで後退したと感じる場合もあります。しかし季節は行きつ戻りつしながらもそのなかで毎年春には柳緑花紅になるように、年ごとに緑や紅の度合いは違うかもしれませんが、私たちは確実に今年の緑色になり、今年の紅色になっていきます。そうして過ごす毎日が先人たちのいう「日日是好日」の概念を生み出したのではないでしょうか。今年の春は今年にしか会えません。来年の春には来年にならなければ会えません。それぞれが今目の前にあることに現在の自分自身で素直に向き合うことで、自然に己の体を進めていっていただけることと存じます。

淡交タイムス 4月号 巻頭言より